4.江戸時代初期の保昌山(えどじだいしょき)
🌿 安定と発展の時代
**江戸時代初期(17世紀初め〜18世紀前半)**は、**江戸幕府(えどばくふ)**ができたことで、日本全体が安定した時代になりました。この時期には、文化や芸術が大きく発展し、都市の成長も進みました。戦国時代の混乱が終わり、経済も安定してきたことで、祭りや行事がますます重要になりました。
この流れの中で、**保昌山(ほうしょうやま)**も大きく発展しました。装飾がさらに精巧になり、**祇園会(ぎおんえ)**の中でも特に目立つ存在となりました。地域の人々にとって誇りとなる山となり、その存在感を高めていきました。
🏘️ 町との関わりが深まる
この時期には、**寄り町(よりまち)**制度も続き、さらに重要な役割を果たしました。町同士の協力が強化され、祭りを成功させるための準備や支援の仕組みが整いました。町の人たちは、**祭礼(さいれい)**に参加することで地域の絆を深め、**山鉾(やまほこ)**の装飾や維持にも力を注ぎました。
**東洞院松原上ル燈籠町(ひがしのとういんまつばらあがるとうろうちょう)**を中心とした地域が、保昌山を支える拠点となりました。祭りに参加する町も増え、地域全体が一丸となって盛り上がるようになりました。
🎨 装飾と技術の進化
江戸時代初期の保昌山の装飾は、新しい芸術の影響を受けて進化しました。特に**琳派(りんぱ)や狩野派(かのうは)**といった芸術スタイルが反映され、次のような特徴が見られました:
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人形(にんぎょう):伝説の武士**平井保昌(ひらいほうしょう)**を再現した像がメインで、細部までこだわって作られていました。
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山洞(さんどう):山の中央に作られた空間で、赤い織物で美しく覆われ、装飾の中心として重要な役割を果たしました。
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水引(みずひき):金や銀の糸で精巧な模様が描かれ、特に**唐花模様(からはなもよう)**が人気でした。
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胴掛(どうかけ):布の質が良くなり、複雑な模様が施されるようになりました。伝統的な柄に加えて、新しいデザインも取り入れられました。
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見送り(みおくり):背面には美しい絵が描かれ、観客の目を引く大切な装飾になりました。
📜 町の誇りとしての保昌山
この時期、保昌山の祭りは地域の誇りとして深く根付きました。装飾や準備には多くの資金が必要でしたが、町の人たちは団結して資金を集め、祭りを成功させました。また、祭りを通じて町の結束力も強まり、地域の絆が一層深まりました。
保昌山の祭礼は、単なる宗教行事ではなく、地域文化の象徴として大切にされ、世代を超えて伝えられる行事となりました。
📅 江戸時代初期の年表
年代 | 出来事 |
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1603年 | **江戸幕府(えどばくふ)**が成立し、徳川家康が初代将軍に就任しました。 |
1624年 | 保昌山が現在の場所に移され、**寄り町(よりまち)**制度がさらに強化されました。 |
1657年 | **明暦の大火(めいれきのたいか)**が発生し、京都も影響を受けて山鉾の一部が損壊しました。 |
1669年 | 新しい装飾が整えられ、町の人々による修復活動が活発になりました。 |
1673年 | **延宝の大火(えんぽうのたいか)**の被害から復興し、町の団結力が強まりました。 |
1690年 | 保昌山が地域文化の象徴として定着し、祭りの規模も拡大しました。 |
👉 次回予告
次回は、**「江戸時代中期の保昌山」**について詳しく説明します。安定した江戸時代の中で、保昌山がさらにどのように発展し、町にどんな影響を与えたのかを紹介します。お楽しみに!
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